もくじ
【コーヒーの歴史】❹高貴なる品種カリブへ
15世紀半ばから約250年間続いたイエメンでのコーヒー独占栽培は、オランダ東インド会社の暗躍により終焉を迎えました。
オランダ東インド会社によりモカから持ち出されたコーヒーの苗木は、スリランカ、インド、ジャワへと伝わります。
そしてジャワ島から、ヨーロッパ、さらには中米につながる新たな展開が生まれるのです。
現代において中米はスペシャルティコーヒーの代表的産地のひとつですが、16世紀から17世紀の歴史の舞台ではまだ登場していません。
この記事では、ひとりのフランス海軍士官がどのようにしてコーヒーを中米にもたらしたのか、その物語をお伝えしましょう。
ジャワからアムステルダム植物園へ
ジャワ島でのコーヒー栽培が成功し、コーヒーはスラウェシ島やスマトラ島など、インドネシアの他の島々にも広がっていきました。
そして1706年、ジャワ島から1本の苗木がアムステルダム植物園に送られます。
アムステルダム植物園といえば、世界で最も古い植物園のひとつ。
当時の市長のニコラス・ウィッセンにより創設された植物園とされていますが、オランダ東インド会社とも繋がっており、世界中から東インド会社が持ち込む外来植物の栽培に力を入れていたようです。
ジャワ島から送られたコーヒーの苗木もそうした外来種のひとつだった訳です。
市長の命を受けた植物学者ガスパール・コメリンがジャワ島から送られたコーヒーの育成に成功します。
きっと様々な外来種の育成のノウハウを持った植物園だったから成功したのでしょうね。
アムステルダムってコーヒーベルトからは全然外れてますし、当然温室で育てていたのでしょうが、コーヒー栽培に適した場所ではないです。
それを考えると、ある意味意外なルートを経てコーヒーの旅は続いていきます。
フランス国王ルイ14世へ献上
アムステルダム植物園で栽培に成功したコーヒーですが、1714年にこのコーヒーの木がフランス国王ルイ14世に献上されることになります。
ルイ14世といえば、「太陽王」と呼ばれ、領土拡大の戦争を繰り返し、あのヴェルサイユ宮殿を築いた国王。
とはいえ1714年はルイ14世の晩年、崩御が1715年ですからその前年になります。
ルイ14世自身がどこまでコーヒーの苗木に興味を示したかは分かりませんが、献上されたコーヒーの苗木は翌日にはパリ植物園に移送され、そこで育てられることになります。
パリ植物園は1代前のルイ13世の時代に作られた元は王立の薬草園で、ここもまた世界中の植物を集めて栽培していた植物園。
このパリ植物園で育てられたコーヒーが、最も高貴な品種とされる「ティピカ」の祖先となるのです。
オスマン帝国皇帝、フランス国王など、この時代の権力者と関係しながらコーヒーは次第に世界に広がってきました。
海軍士官ガブリエル・ド・クリューの冒険
海軍士官ガブリエル・ド・クリュー登場
ここで一人のフランス海軍士官が登場します!
ガブリエル・ド・クリューです。
任地であるカリブ海マルチニーク島から一時帰国していたド・クリューはある計画を心に秘めていました。
赴任地であるマルチニーク島にコーヒーを持ち帰り、栽培することを企てていたのです。
オランダが東インド諸島の植民地でコーヒー栽培に成功し利益を上げていくのを見たフランスは、自国の植民地での栽培を目論んでいました。
しかし、ルイ14世に献上された苗木から育ったコーヒーの苗木をアンティル諸島に輸送しようとして、これまで2回失敗。
15世紀から17世紀の大航海時代よりは航海技術は進んでいたのでしょうが、それでも遭難、難破、海賊の襲撃、疫病の発生など、当時の航海は現代の船旅とはまったく違う危険な旅だったようです。
ちなみに大航海時代の航海は生還率20%程度だったとか😱
ド・クリューは、まだ誰も成功していなかった中米へのコーヒー移植に挑戦します。
困難を極めたマルチニークへの航海
計画を実行に移そうとしたド・クリューですが、まずつまずいたのが苗木の入手。
厳しく管理されていたコーヒーの苗木を手に入れるのは簡単ではなかったのです。
それでもなんとか王の典医ド・シラクの助力を得て、ド・クリューは苗木を手に入れます。
そしてド・クリューは1723年、ナントの港から出港し、コーヒーの苗木とともにカリブ海への航海に出発します。
しかし航海は困難を極めます。
苗木を横取りしようとする乗客、海賊の襲撃、激しい嵐、そして飲み水の不足。。。
分け与えられたわずかな水を苗木と分かち合い、幾多の困難を乗り越え、ド・クリューはマルチニーク島にたどり着きます。
これ、映像化したら絶対面白いと思うんですが、ディズニーやってくれないかな。
ド・クリューの木は西インド諸島一帯に
その後、ド・クリューは苗木を大切に育て、幸いにも順調に育ったようです。
が、さらに意外な展開が待っています。
2年後、一帯を襲った凄まじい嵐により、島の主要な作物であったココアが大打撃を受けて全滅。
すかさずコーヒーへの転作を行ったところこれが大成功し、大きく生産量を増やしました。
ド・クリューのコーヒーの木は西インド諸島一帯に広がり、18世紀半ばにはハイチが世界最大のコーヒー生産地となります。
1746年、フランスに帰国したド・クリューはルイ15世に謁見し、コーヒーの栽培により目覚ましい貢献をした優れた将校として紹介されています。
(出典「ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて」)
ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて (角川ソフィア文庫)
もっと詳しく知りたいという方はこちらをどうぞ。
ブルボンの南米への旅
こうしてフランス海軍士官ガブリエル・ド・クリューの活躍により「高貴なる品種ティピカ」は中米に広がります。
ティピカはその後コスタリカを経て、南米のベネズエラにも伝わります。
そしてティピカは現在もジャマイカを始めカリブ海地域で栽培されています。
さて、次は南米に広がったもう一つの重要な品種ブルボンの旅について書いてみたいと思います。